ところが今日の日本の社会のなかでは、市場経済だけでなく、非市場経済も、半市場経済も展開しているのである。そして、市場経済に存在のつまらなさを感じた人々は、非市場経済や半市場経済に関心を寄せるようになった。いまではどれほど多くの人たちが、あまりお金を使わない生活に憧れていることだろうか。 (最終章 現代社会と市場経済、非市場経済、半市場経済 より)
80年代頃は経営者やビジネスマンのための本といえば会計や財務・法務の*「出だしは読点で切らず音をつらつら連ねて衝迫感を出したい」という例の生理的衝動が、このときも発現。「といえば」で切らなくても続けて読める(疲れない)と踏んだのは、「ば」と次の「か」の母音が同じで口角の切り替え運動が不要だからです。とはいえ次の読点(~にあるぐらいで、)までのひと固まりはやはり通常より長い(読み手に負担を強いる)ので、音のうえでは可能なら「財務・法務」は「財法務(ざいほうむ)」がベスト、「財・法務(ざい ほうむ)」がベターですが、全体の最初でもあるので意味の伝達の丁寧さを優先し、音は多少犠牲にすることにして「ざいむ ほうむ」としました-実用書が店の奥の「法経書コーナー」にあるぐらいで、「ビジネス書」というジャンルはまだなかった*筆者は実地でその状況を見ていた世代ではありませんが、先輩世代の書籍編集者の証言を使わせていただきました-。
*今の感覚なら確実にここで改行を挟むと思います。なので改行-しかし現在、「ビジネス書」は花形の出版ジャンルである。書店に行けば入ってすぐのコーナーにポップな装丁で何冊も並び、経営者の自伝があるかと思えば、組織論やリーダー論の本があり、漫画で経営戦略を説く本があり、投資入門の本があり、一連の「○○術」はタスク管理術、最新ITツールの活用術、手帳活用術やメモ術までカバーする。直近では仕事のパフォーマンスを上げるメンタル・メソッドや瞑想法、健康術などがトレンドだ。*ここも今なら確実に改行する感覚だろうから改行。今思うと、関係節の書き方(英語で例えるならIt is~関係代名詞that~のthat以下の内容がここまでで、次の段落の「この流れ」がIt is~)をするときに段落跨ぎをさせたくなかった当時の自分の心理は、Webならではかもしれません。書籍や雑誌などであれば改行は新しい段落の行頭がひとマス下がるだけですが、Webの改行は空の行が1行挟まります。その物理的な距離・懸隔に、「読み手は関係節だと分かってくれるかな」という不安がどうしても付きまといます。紙ではなくWebで読むのがテキストのデフォルトになって久しい今、当時の自分が感じていた不安は、書き手たちの中でどう処遇されているのでしょう。まだどこかにあるでしょうか-
本書もこの流れに沿う一冊と思いきや、それにしては愚直で泥臭い印象が残るのは、著者が共同執筆者も含めた全員の執筆動機として語る通り、一種の社会思想の実践を期して書かれた本だからのようである。
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半市場経済とは何か。本書はそれを、「市場を活用しているという点では市場経済であるが、活動の目的はよりよき働き方やよりよき社会をつくろうとするところにあり、目的が市場経済の原理から外れている」経済活動と定義する。*ここも今の感覚に即して改行-
代表例として「ソーシャル・ビジネス」や「エシカル(倫理的な)・ビジネス」と呼ばれるものがある。だが*直前を改行したので、字数を詰めなくていいなら、リズム的にはここは一度センテンスを切るべきでした-、それらも半市場経済の一部であり、著者によればそもそも、「市場経済に関わる人間の活動の古層には、常に半市場経済的な営みがある」。例えば、“市場の見えざる手”の理論で現代の市場主義経済にお墨付きを与えたと思われている経済学の祖アダム・スミスも、「自己利益、自己愛という動機を認めながらも、共感と慎慮が彼の思想の大きな存在を占めており、いわゆる“経済人”の行動原理とされる自己利益の最大化と合理的行動の効率を信じていたとの証拠はほとんどない」(p176)*読んだときに「へぇ!」と思った箇所。その後もいろんな本を評するなかで、アダム・スミスに限らずケインズも誰彼も、後世の人たち(学者を除く一般人)がそのときどきの時代の風潮に好都合なところを切り取って“お墨付き与え役”に祭り上げているだけなんだなぁ、と認識するに至った、その嚆矢です-。
この仮に今そのように*当時、次のセンテンスでも「この」が続くので迷いましが、それこそ改行による行空きのせいで、前段の内容を受けていることを読者が分からないのではないかと恐れ、「その(those)」よりは心理的距離が近い「この(this)」を採用しました。かつ、二文字増えるぐらいは気にしなくて良いのであれば、ここは今回直したように「かりにいま」と5音増やしてリズムをやや伸ばすのが理想だと思います。そうすれば読者は0コンマ何秒かの猶予が与えられている間に「ああ、前段の内容だな」と分かりますからー市場経済を問い直すと、「経済とお金」というカップリングも、現在今*「今」が重複するのがカッコ悪くて当時は「現在」としましたが、訂正。悪文になるよりリズムの良さを優先-思われているほど自明のものではなくなる。*今ならここは改行だろう。改行-
このことに、よくある清貧思想*「いわゆる」とか「よくある」とかのexcuseを付けることは、書き手として対象への中立的態度・立ち位置を意識的に保つうえで大事だと思います-以外からアプローチしてみよう。通常、冒頭に引用した若者像*若者であることは引用箇所だけでは分からないが、「あ、若者なのね」と思ってもらえるだろうと思い、可としました-は“持たざる者”としてお金=貨幣を嫌忌した描写と読まれるだろう。しかし、これはそのまま“持てる者”の慨嘆にもならないか。*ここも、今なら改行-
貧乏な若者は「あまりお金を使わない生活」に憧れるかもしれないが、富裕な資産家も「たくさんお金を使うこと」そのものに憧れているわけではない。むしろ、たくさんお金があることで一番良いのは、普段の生活でお金を使っている感じがしないところだろう*平たく言えば「お金のことを考えないで済む」ですが、意図的に敷衍したというか、読み換えました。やや強引な読み換えの自覚があったのと、資産家の気持ちが解るのか?という自戒を感じていたぶん、推量の「だろう」という書き方になりました-。どちらにとっても「お金を使わない生活」こそが理想であるが良いのなら、それがはつまり、そっちのほうが本質的だということだ。*ここは改行しないことにこだわりました。改行せず続けて、次の3センテンスも意図的に短文で畳みかけました-ここに至って「経済」と「お金」は分離する。後者と不可分のものとしての「市場」と「経済」も分離する。そこに非市場経済、半市場経済が立ち上がる。
本書第二章と第三章の事例からは、半市場経済についてもう少し具体的にイメージできる。そこに書かれるのは、経済活動を営むことで生まれたり育ったり動きはじめたりするもののうち、「縁」や「同感」や「仲間とのつながり」が「貨幣」と並んで相当の割合を占めて成り立っているビジネスの例だ。「オーガニックコットン」を日本に持ち込んだパイオニア企業の株式会社アバンティ、日本の家具メーカーで初めて合法性確認材「フェアウッド」の使用率100%と国産材使用率50%を達成した株式会社ワイス・ワイス。「自分一人でできることはやらない」という方針でヒト、コト、モノ、バショを活かした経済圏「フルサト」をつくった元Webディレクターのゲストハウス「へんぼり堂」、都市と農家の間にあえて留まり、両者を“つなぐ”役割から様々な仕事やプロジェクトを興している一般社団法人つむぎや。これらの例を知ると、経済活動によって生まれたり育ったり動きはじめたりするものの全割合を貨幣とその利殖が占める市場経済のほうがむしろ、かえってよっぽど特殊なのではないかとさに思い至らされる。
最後に、第二章「エシカル・ビジネス」から「コーオウンド・ビジネス(従業員所有事業)」の引用を。「英国ではニック・クレッグ副首相がコーオウンド・ビジネスを2020年までにGDPの10%を占めるまでに押し上げると宣言した。米国ではすでに、コーオウンド会社が民間雇用の10%を支えるまでに成長している。さまざまな調査研究で、コーオウンド会社はそうでない会社と比較して、売上高、利益率、社員定着率、イノベーションの数、会社の持続性ともに優位であるとの結果が示されている。‥中略‥もうひとつの魅力は、事業承継策として有効な点である。実際、英米でコーオウンド・ビジネスが普及したのは、オーナー経営者たちの承継策として採用されたのがきっかけだった。」(p111)
日本の企業でこれから増える課題の解決に、大いに示唆になりそうな一節だ*事業そのものはまだ地域や取引先から求められている企業やお店を、オーナー世代が誰に承継するかしないか、続けるならどう続けられるかの問題に関しては、この5年後、2020年10月に、『社長、会社を継がせますか? 廃業しますか? 誰も教えてくれなかったM&A、借金、後継者問題解決の極意』(奥村聡著 翔泳社)の書評で考えることになりました-。

内山節氏に関しては、この書評を書いた後の11月26日、新刊『いのちの場所』(岩波書店)の出版記念イベントに参加して、購入した本の見返しにサインをいただきました。こちらの勝手な印象ではありますが、まさに“野の哲学者”のお人柄を想わせる風貌、雰囲気の方でした。本は今も手元にあります。良い本です。








